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東京地方裁判所 昭和42年(合わ)57号 判決 1968年7月02日

被告人 長内芳春

主文

被告人は無罪。

理由

一  本件公訴事実は、「被告人は、一人暮しの伯母川村すな(当時五七年)が小金を蓄えているものと見込み、遊興費欲しさから同女を殺害してでもその金員を強奪しようと決意し、昭和二七年二月二五日午後九時過ぎごろ青森県東津軽郡高田村大字小舘字桜苅一六四番地の同女方に赴き、四畳半の居間で針仕事中の同女の隙を窺い、いきなり背後からマフラーをその頸部に引つかけて俯伏せに押し倒しながら絞めつけ、失神状態に陥つた同女を奥六畳の寝室に運び込んだところ同女の裾が乱れているのを見て俄かに劣情を催し、強いて同女を姦淫しようとしたが射精が早くて未遂に終り、その儘間もなく同女を右頸部絞圧によりその場で窒息死させて殺害し、次いで同屋内を物色し同女所有の現金三〇〇円位を強取したものである」というのである。

二  右公訴事実のいう昭和二七年二月二五日夜川村すな方で発生した事件については、当時おなじ桜苅部落に住んでいた板金工の米谷四郎(大正一〇年七月一二日生、当時三〇才)が事件発生後間のない昭和二七年三月二日に逮捕され、同月二三日強姦致死、殺人罪で青森地方裁判所に起訴された。同人は、逮捕後同月四日から自分の犯行であることを認め、同月一七日まで自白を続けていたが、その後全面的に事実を否認するに至り、以後は公判になつてからも事実を争い続けたのである。

青森地方裁判所は、同年一二月五日、「米谷四郎は、昭和二七年二月二五日午後七時ごろ、青森県東津軽郡高田村大字小舘字桜苅一六四番地寡婦川村すな(明治二八年二月二一日生)方四畳半の間で同女と対談中俄に劣情を催し、同女に対し情交を迫つたが拒否されたため強いて同女を姦淫しようと決意し、いきなり手拳をもつて同女の胸部を突きそのため同女が倒れると同女を隣室六畳間の寝床まで抱きかかえて仰向けに倒したが、なお抵抗するので同女の頸部を着衣の襟を両手で持つて絞めたところ、力余つてその場で同女を窒息死に至らせ(姦淫自体は結局所期の目的を遂げず)たものである」という強姦致死の事実を認定し、懲役一〇年を言い渡した。米谷は、仙台高等裁判所に控訴したが、翌昭和二八年八月二二日控訴棄却の判決を受け、この判決に対しては上告の申立をしなかつたので、第一審の有罪判決が確定し、同人は、はじめ宮城刑務所で、ついで秋田刑務所で服役し、昭和三三年二月一八日、執行済期間四年五月余で仮出獄を許されている。

三  ところが、たまたま、脅迫被告事件で昭和四一年三月五日、ついで窃盗被告事件で同月一六日、東京地方裁判所に起訴されて、警視庁本所警察署に未決勾留中であつた本件被告人が、同年四月初旬に、突如として、同署員に前記川村すなに対する事件の犯人は右米谷四郎ではなく被告人である旨の告白をし、その後東京地方検察庁検察官に対しても詳細な自白を続けたため、同庁検察官は、長期にわたる捜査ののち、公訴時効完成を目前にした昭和四二年二月二三日、あらためて被告人を前記公訴事実によつて起訴したが、その当日、公訴提起の直前、被告人は、検察官に対しそれまでの自白は虚偽であつたと述べ、従前の供述をまつたくひるがえすに至つた。

以来、被告人は当公判廷においても終始本件公訴事実を否定し、捜査官に対する自白は虚偽である旨述べているのである。

四  以上のような本件の特殊な事情にかんがみ、当裁判所は、一五年前の事件の真相をあらためて虚心に究明するため、幸いにも保存されていた米谷四郎に対する強姦致死被告事件の確定訴訟記録および公判不提出記録をすべて証拠として詳細に検討したほか、二回にわたり青森市におもむいて、現場あとや付近の検証をし、米谷四郎自身をふくむ多数の証人を取り調べた。秋田市でも証人一名を取り調べ、当庁では、被告人の検察官に対する自白を録音した長時間にわたるテープに耳を傾け、被告人の司法警察員および検察官に対する供述調書を精査し、さらに検察側および弁護側請求の証人その他の証拠を取り調べ、職権による若干の資料の取調をもした。公判廷における被告人の供述を聴き、その態度に注目したこともむろんである。

証人たちに対し一五年前の経験を尋ねても、記憶がさだかでないことはいうまでもない。これらの証人の証言から、新たな事実を発見することはむずかしいのが当然である。しかし、当時の目撃者、捜査官、被害者や被告人の近親者、同部落の人たちその他の関係者を取り調べたことは、やはりきわめて大きな意味があつた。直接その人たちの人柄を知り、いまなお残つている印象をたしかめえたことは、その人たちについて、当時の行動の態様を察し、当時の供述の価値を考えるうえで、非常に役立つたのである。

五  そして、当裁判所は、すべての証拠を十分に検討したのち、つぎのような揺ぎのない心証に到達した。すなわち、被告人の自白は虚偽であり、被告人はこの事件の犯人ではないと認めるべきである。

以下、主要な諸点について述べることにする。

(一)  被告人が、その自白のなかで、犯行の動機として供述しているところは、要するに金が欲しかつたためであるということにつきる。

しかし、なんといつても、本件被害者である川村すなは被告人の父の姉すなわち実の伯母であり、被告人に当時その伯母を殺してまで金を必要とする特段の事情があつたとは、到底認められない。

被告人は、昭和四一年五月一七日の録音テープでは、「別にこれといつた使い方というのは何もありませんが、ただ金がほしいので、その金をとつて何に使うというあてもなかつたんですけれども、金がほしいんで」(二(七)三七。記録二の(七)の三七丁を意味する。以下これにならう)といい、また、検察官に対する昭和四一年五月三一日付供述調書(B)では、「私はその頃青森のやくざの仲間入りをしようと考えたこともありますが、育ちが北海道で顔も利かず、第一歩から下積の苦労をしなければならないので諦め、釧路ならかなり顔も利かしていたので新しい組織を創つて頭目になつて思う様のことができると思い、それにはやはりまとまつた金がいるのでその金が欲しかつたのであります」(二(六)一八八)といつたりしているが、いずれにしても首肯できないのである。川村すなは、村から生活扶助を受けて暮していた位で、豊かな生活をしていたわけではけつしてなく、被告人としても、伯母に「全然憎しみはありません」(二(八)一一〇)というのであり、被告人のそれまでの犯罪歴としては、友人の少年と共犯で銅線を盗み、保護観察処分を受けたことが一回あるだけで、被告人が計画的に伯母を殺してまで金を奪うことを考えつくような事情はまつたく見いだせない。

姦淫の点についても、当時まだ一八才であり、別段性的に異常な面があつたともいえない被告人であつたことを考えるとき、当時五七才に達していた伯母の太ももが見えたからといつて、自分が絞め殺した伯母を姦淫しようという欲情が湧き、射精ののち、精液の型から犯人がわかると思い、手拭を長さ一寸位に丸めるようにして伯母の陰部の中に差し込んで精液を拭き取る(二(六)一四八)というような行動をすることの不自然さは、おのずから明らかである。

(二)  被告人の自白によれば、被告人は、二月二五日夕食後午後六時か六時半ごろ川村すな方へ様子を見に行き、五分か一〇分(一〇分か一五分ともいう)いて、同部落の鎌田孝一方へ行きトランプ遊びをして時間をつぶし、午後九時か九時半ごろ(九時半か一〇時ごろともいう)酒を買つてくるといつて鎌田方を出て再び川村方に行き、犯行に及び、三、四〇分川村方にいて、帰途午後一〇時前後ごろ(一〇時か一〇時半ごろともいう)墓地の前で柴田家の人たちを見、自宅の門内に隠れて同人らをやりすごし、午後一〇時半ごろ再び鎌田方に行つてトランプ遊びをして、午前一時前後ごろ自宅に帰つたというのである。

しかし、例えば、鎌田とめの司法警察員に対する昭和二七年三月三日付供述調書(二(三)一七〇)によると、「二月二五日同部落の川村すなが殺された日、夕食後七時三〇分ごろ義春(被告人)がまた遊びに参りました。義春は一時(電気が点いた)ごろ明(川島明)と一緒に帰りました。義春も明もどこへも出ませんが、ただ隣に私と三人で炭を借りに一二時一寸過ぎごろ出たきりでした。それ位のものです」というのであり、その他被告人が三、四〇分以上も鎌田方を中座した事実のないことを認めるべき資料はあつても、そのような中座の事実を裏づける資料はない。

また、被告人は午後一〇時前後か一〇時半ごろ墓地の付近で柴田家の人たちを見たというのであるが、確定記録中の第一審および第二審における証人柴田武良、同柴田フミ、同柴田公人、同柴田巌の各尋問調書(二(一)一五七、一六二、一六六、一六九、二(二)六三、六七)、不提出記録中の柴田武良、柴田フミ、柴田公人、柴田巌の司法警察員および警察官に対する各供述調書(二(四)八四、九〇、九四、一〇一、一〇七、一一二)および証人柴田武良、同柴田ふみ、同柴田公人、同柴田巌に対する当裁判所の各尋問調書(一(二)四四、七三、一〇二、一一八)を総合すれば、同人らは、武良、フミ夫妻の長男(生後一〇〇日余で死亡)の葬式をした翌日である二月二五日夜墓地に出かけ、午後六時過ぎごろから四〇分位墓地にいて、午後七時ごろ野沢部落の方から里村商店の方へ歩いて行く米谷四郎の姿を見た事実を確認することができる。

すなわち、柴田家の人たちが川村すな方の方向から里村商店の方へ歩いて行く人を見た時刻は午後七時ごろであつて、被告人の供述するような午後一〇時前後ないし一〇時半ごろではないのである(柴田家の人たちが同夜おそく再度墓地にいつた事実のないことも確実である)。

なお、被告人は、検察官に対する昭和四二年二月二一日付供述調書で、「犯行後墓参りしていた柴田の家の者に会つたことは間違いありませんが、或いは七時前に一度伯母方に様子を見に行つたときの帰りであつたかも知れません」(二(六)二〇九)と供述が変つているが、それ以前の供述では、検察官から午後七時ごろ墓参りの人に気づかなかつたかと念を押されても気づかなかつたと述べていること(二(八)一二八、一三七)に注目すべきである。

そして、時刻を別にしても、柴田家の人たちが見たのは明らかに米谷四郎であつたというのであり、この目撃者たちの視力、年令、気象条件、距離その他すべての事情を考慮に入れても、その供述の信用性に疑問を抱くべき余地はまつたく見いだせない。

(三)  司法警察員作成の昭和二七年二月二六日付実況見分調書(二(二)三八七)、長内義昭の司法警察員に対する昭和二七年二月二七日付供述調書(二(五)一二五)等によれば、被告人が川村すなを絞め殺したという四畳半の居間にはこたつがかけてあつたことが認められるのに(すべての資料を考慮しても、この点について、事件発覚後に現場の変更が行なわれたものとは到底認められない)、被告人は、そのときすながいた場所について、司法警察員に対する昭和四一年四月八日付供述調書では、伯母は「炉端」に坐つていたといい(二(六)一〇三)、同年五月一七日、同月一九日の録音テープでは、伯母は「火鉢」のそばに坐つていた、「こたつするときもあるし、しないときもあるし、そのときはしていませんでした」と述べ(二(七)八七、八八、二(八)一五六)、同月二四日の録音テープでも、そのとき伯母が針仕事をしていたのは、「炉端でないです。火鉢なんです。炉端つていつた方がいいんでしようか、火鉢つていつた方がいいんでしようか」、「よくこたつもかけたことありますけど」(二(九)六五、六六)というふうに述べ、さらに検察官に対する同月三一日付供述調書(B)では、「炉端」で針仕事をしていた(二(六)一九五)といつている。

また、前記実況見分調書によれば、被害者が割烹着など着ていなかつたことが明らかであるが、被告人は、そのとき伯母が白の長い割烹着を着ていたといい、それを身につけたままで寝かせておいたと述べていて(二(六)一一五、一四九、一五〇、二(九)六七)、あとでは、その点をはつきりしないといい変えている(二(六)二〇二、二〇七)。

そして、日本銀行発券局長の昭和四三年三月二八日付回答書(二(一〇)八)によると、昭和二七年二月当時一〇円および五〇円の補助貨幣は流通していなかつたことが明らかであるのに、被告人はくり返し、川村すなのがま口の中から「一〇円札の四つ折りにたたんだのが二、三枚と、五〇円玉が二個位と一〇円玉が十数個合せて三〇〇円位の金」を取り、がま口はその場に残し、その後鎌田方に行つてトランプの賭をし、「全部敗け私は一五〇円位取られたので、伯母のところから取つて来た五〇円玉一枚と私が持つていた一〇〇円札で払つたように思います」という趣旨を述べている(二(六)一五三、一五八、二(七)八一、八二、二(八)一九〇、一九一)。補助貨幣の点は、記憶ちがいがありうるとしても、そもそも、被告人のねらいであつた川村すなが有り金を入れて肌身離さず懐にしまつている様子だつたという四つ折りのような財布や被告人がその中から約三〇〇円位を取つたというがま口は、どこからも発見されなかつたのである。

さらに、前記実況見分調書、証人荻原清澄の昭和二七年六月一八日の尋問調書(二(一)二四三)、証人工藤良男、同祐川むつ、同川村芳男に対する当裁判所の各尋問調書(一(二)一八六、一(六)五〇、一一六)等によると、現場には、川村すなのもんぺが片方が裏返しになり、ひもが切れた状態で置いてあつたことは、間違いないと認められるのであるが(この点についても、重大な現場変更があつたものとは認められない)、被告人の自供によつては、この事実は説明されない。

以上の諸点は、被告人の自白が虚偽であることのあらわれであるといわなければならない。

(四)  殺害の方法についての被告人の自供の大要は、「マフラーの両はじを手に持つて輪を作る様にして、後ろからこのマフラーをあごの下にかけて、マフラーの両はじを力一杯引張りながら左側に倒し」、「マフラーの右の端を左手で持つて、左の方を右で持つてやつたんです」、「マフラーの両端を両手に掴んで伯母の背後から輪を作るようにしてあご下にひつかけ、そのまま掴んだ両手を交差させるように逆方向に引き、伯母の肩先で両手を押えつけながら力一杯絞め上げると、伯母はうめき声を立て、首の両側に手を当てもがくような格好をし、私が後ろから絞め押えたので、体の左側を斜め下にして畳の上に俯伏せに倒れ、私はなお一分位後ろから覆いかぶさつて絞めつけていると、動かなくなつてしまいました」(二(七)六五、二(六)一〇四、一九六)というのであり、米谷四郎の自供の大要は、「右手の拳骨ですなの右胸のあたりを一回どんと突きました」、「女の上に重なり、両手で女の着ている着物の襟をとつてギユーと女の首を絞めたのであります」、「着物の一番上の方の一枚を口のすぐ下で両方より上に絞め上げた」(二(二)四四六、四六九)というのである。

そして、鑑定人赤石英作成の昭和四一年一二月一六日付鑑定書(二(六)三九。以下赤石再鑑定書という)は、長内芳春(被告人)の供述は、絞頸索条と頸部右側の間に毛布製上張りの襟が介在したこと、針箱が被害者のすぐ左側にあつたことの二つを前提条件とするならば、死体所見とよく一致するものと認められるが、米谷四郎の供述と死体所見とには不一致が認められるとし、鑑定人上野正吉作成の鑑定書(二(六)四〇。以下上野鑑定書という)も、長内芳春(被告人)の供述のうち「左側に倒した」という点は「右側に倒した」ことの思い違いであることさえ認めれば、その供述内容に見られる加害状況は本件被害者に存する損傷の状況とよく一致するが、米谷四郎の供述には、本件被害者に存する損傷、索溝の成因を説明するには不適当な個所が存するとしている。

右のように、被告人の供述が川村すなの損傷とよく一致するというためには、いずれも前提条件を必要としているのである。上野鑑定書では、さらに、左手はただ単に索条(マフラー)の端を握り、その握つた拳を被害者の背面または右肩の辺に固定させておき、右手にはより強大な力を加えて索条(マフラー)を握つた拳を被害者の背面正中から被害者の左肩またはこれを越えてさらに外方に突き出すようにして絞頸を効果的に行なつた場合ということも、前提条件になつている。

しかし、これら種々の前提条件の存在は、被告人の供述では、もちろん、その他の資料によつても明らかになつているわけではなく、特に、上野鑑定書の前提とする絞頸方法については、被告人がそのような方法によつて伯母の首を絞めたという趣旨で終始述べていたものかどうか、相当に疑問の余地があるといわなければならないのである。

赤石再鑑定書では、被告人の供述が死体所見とよく一致し、米谷の供述に死体所見と不一致があるとする根拠の一つとして、米谷の供述するように「両方より上に絞め上げた」ならば、舌根部が挙上され、結果としては舌が歯列から挺出しているのが普通な筈であるのに、本件においては、歯列は閉じており、舌の挺出は認められない、これに対し長内の供述によると、「両手を交差させるように逆方向に引き、伯母の肩先で両手を押えつけながら力一杯絞め上げた」のであり、牽引の方向は後稍下方に向つていることが考えられる、被害者の舌が挺出していなかつたということも、後稍下方から牽引したということとよく適合するといえようといつている(二(六)三四、三三、三一)。

しかし、上野鑑定書では、鑑定人赤石英作成の昭和二七年三月一一日付鑑定書(以下赤石第一鑑定書という)の記載から、絞頸時に舌尖が歯列の間より挺出し、これにより上下歯牙の間に圧迫されて損傷したものと判断しているのであつて(二(六)五二)、舌の挺出の点について赤石再鑑定書と対立している。

赤石再鑑定書および上野鑑定書は、いずれも、川村すなの後方から首を絞めたという被告人の供述を前提として、その供述は川村すなの頸部の索溝とよく一致するとしているのであるが、確定記録中の第一審第三回公判調書中証人赤石英の供述部分によると、「圧迫は頸部の全周囲に亘つて加えられたものと考えられます。ただ頸部の後ろの方で力が交差したかどうかということは、ちよつと考えられません。何故ならば、写真に見られる通り索溝は咽喉の凸起部に近い部分に索溝が強く、左頸部の方にゆくに従つて弱くなつているので、力のもつとも加わつたところは前の咽喉の部分であるから、後ろの方で力が交差したことはないと思います」(二(二)三八四、三八五)というめであつて、前記両鑑定書とは矛盾があり、むしろ、米谷のいう前の方から絞めたとする方がより索溝と一致していることになる。

そして、同証人は、第一審および第二審で、川村すなの着ていた毛布製上張りの襟で首を絞めることによつて、死体にあつたような索溝ができる可能性のあることをはつきり認めているのである(二(二)三八三、一一一、一一二)。

つぎに、右大胸筋内出血の点を考えると、なるほど、被告人が川村すなを倒したとき、同人の右第二肋骨部が針箱に当つたと仮定すれば、被告人の供述の方がその損傷とよく一致することはたしかであろうが、被告人の自供中には、川村すなの胸が針箱に当つたという供述はなく、むしろ「針箱に当つたかどうかよく判りません」(二(六)二〇七)と述べているのである。

そして、実際に解剖したときの所見に基づいて作成された赤石第一鑑定書では、この右大胸筋内出血について、「この出血は、筋繊維の走行に一致していることより推察し、該部に鈍体が作用したため生じた出血が筋繊維束間を通り、前記の如き長さ(約一三センチメートル)に達したものと考えられる」(二(一)四六)とあつて、米谷の供述の方が符合していたのであり、証人赤石英の当公判廷での供述によれば、「ところが今度再鑑定を命ぜられまして、警察側で撮影しました解剖写真の右胸部の右大胸筋の出血の部分を改めて見ますと、出血の程度が右も左も同じような程度になつておるんです。それで私の前の出血についての解釈は間違つておつたんだろうと思うんです」(一(四)一五七)というのであり、証人上野正吉の当公判廷での供述によれば、「私が解剖したならば、一ケ所に血管の破綻が起こつてそこから伝わつていつたものかどうか判断がつくんですが、そういうのは一切できませんので、長さ一三センチがずつとその巾でみんな出血があつて起こつたものであろうと解釈したわけです。そうすると、手拳ではちよつと無理だろうということです」(一(四)二三〇)というのであつて、拳骨で右胸を突くという方法ではけつしてこの内出血が生じえないものとは断定できないのである。

(五)  射精の点について、被告人の自供では、「伯母の陰部に陰茎を入れたか入れない位のときに、急に気分が出て射精してしまいました」(二(六)一四七)というのであり、米谷の自供では、「五、六回抜き差ししているうちに気分が出て、まんじゆう(陰部)の中へ精液を出してしまいました」(二(二)四七一)というのである。

一方赤石第一鑑定書によれば、「本屍の腟腔には精子は認められないが、下腹部及び外陰部には人間の精液が証明された。従つて、本屍は腟外射精を受けているものと認められる」(二(一)四五)とされている。

しかし、被告人の自供でも、「そのとき入れたことは入れたと思うんですけれども、精液までは入れたか入れないか、それはわからないんです」(二(八)一六四)といい、また、「中にも精液が入つたと思いましたから」(二(九)一八)とも述べており、他方、米谷の自供中にも、「二、三回抜けた時も気分が出て、たらしてあつた様な記憶があります」(二(二)四四七)という部分がある。

また、解剖前に、荻原医師が腟内にたまつていた液を採取した事実があり(二(一)二四八)、その他何らかの事情で、腟内に射精されていた精液が鑑定の際に発見されなかつたことの可能性も考慮しておかなければならない。

(六)  川村すなの夕食終了時間を検討してみると、確定記録中の第一審の証人里村タカ、同間山哲夫の各尋問調書(二(一)二三六、三四二)、不提出記録中の宮崎コヨの昭和二七年二月二八日付、長内昭雄の同月二六日付司法警察員に対する各供述調書(二(五)八九、二(三)二四)を総合すると、川村すなが夕食を終つたのは、おおよそ午後五時ないし六時ごろと見て差支えないと思われる。

そして、上野鑑定書は、川村すなの死亡時までの食後経過時間は大体二、三時間と見られるが、場合によりこれより長時間ということもありうるといい(二(六)七九)、証人上野正吉の当公判廷での供述では、「二、三時間経過ですから、短い時間といえば一時間半かもしれませんし、二時間を中心にした付近という意味ですから、三時間半でもそういうことになるかもしれません」(一(四)二三五)と述べ、確定記録中の第一審および第二審における証人赤石英の公判調書中の供述部分は、本件の場合、食後殺されたときまでの経過時間は、大体二時間ないし六時間であるとしている(二(二)五七八、一〇九)。

従つて、被告人のいう犯行時間なら食後経過時間と合致するけれども、米谷のいう午後七時ごろという犯行時間では決定的に食い違つてしまうというようなことは、けつしてないのである。

六  以上、主要点について言及したのであるが、要するに、被告人の自白はまつたく虚偽であると認められるのであり、すべての問題点を十分に考慮しても、この心証を動かすことはできない。そして、被告人の検察官に対する自供の録音テープを静かに聴き、その経過に注目し、関連する証拠を詳細に検討することによつて、おのずからこの結論に達するのである。

他方、米谷四郎については、すべての証拠を精査しても、同人が犯人であるとする確定判決の結論に疑問をさしはさむべき事由は、ついに発見できない。同人の自供も、おそらく、すべての事実をそのままに述べたものであるとはいえないと思われるけれども、その大筋を疑うべき理由は、まつたくないのである。

しかし、被告人は、伯母殺しという重大な犯罪について、一〇月間もの長期にわたつてくり返し詳細をきわめる自白を続け、公訴時効完成の寸前になつて、はじめてそれまでの自白をひるがえしたのであり、否認を前提とする捜査はすでに時間的に不可能であつたし、他面、もし被告人の自白が真実であるとすれば、米谷四郎は無実の罪で罰せられたことになるわけであつて、同人のため、正義のためにも、被告人の自白の真偽を慎重に決すべき事情にあつたから、本件について検察官が公訴を提起した措置は、むしろ適切であつたといわなければならない。

それにしても、被告人は、このような自白によつて、数多くの関係者に有形、無形のはかり知れない迷惑を及ぼし、社会に無用の疑惑と混乱を生じさせた責任を痛感すべきである。特に、米谷四郎は、おそらくはその場のなりゆきではからずも犯してしまつたものと思われる犯罪につき、すでに立派にその責任を果たし、善良な社会人として復帰し、遠い過去を忘れて、家族とともに静かに幸福な生活を営んでいたのに、被告人の思慮を夫つた行動によつて、いいようのない困難な立場に置かれてしまつたのである。

被告人がこのように無分別な自白をするに至つたのは、酒を飲むと乱暴をして愛妻ちよえに去られ、何度ももとに戻つてもらおうと骨を折つたがついに成功せず、その後も酒癖がわるいために間違いを重ね、次第に、はなはだしく、病的なまでに、自棄的になつていたためであると思われる。伯母が殺された事件については、少年時に身近で見聞し、強烈な印象が残つていて、詳細な作り話をし、一応その話のつじつまを合わせておくことに、それほど困難はなかつたであろう。被告人が話上手で、誇張、虚言癖があり、一旦言い出すと無理をしてもそれをいいつくろう性格であることも、大いにあずかつている。

いずれにしても、被告人の社会に対する責任は重大であり、この機会に徹底的な反省を要求しなければならないのである。

七  以上のように、被告人は本件の犯罪を犯したものではないと認められるのであり、結局、被告人については犯罪の証明がないことに帰するから、刑訴三三六条により、無罪の言渡をする。

(裁判官 戸田弘 羽石大 米沢敏雄)

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